『コーヒーが好きではなかった私が、珈琲屋店主になるまでの話』

『データを頼りに、迷いながら進むのが焙煎』
名人のデータは、確かに価値がある。
けれど――
それは”答え”ではなかった。
頼りにしていたものが、
決定打にならない現実。
焙煎は、完全に行き詰っていました。
師匠と二人、
豆を前にしては考え込む日々。
「ああでもない、こうでもない」
出口の見えない時間が続きます。
そんな中で、
一人の仲間が加わりました。
N氏。
コーヒーチェーンの現場で、
自家焙煎に取り組み始めていた人物です。
すぐに意気投合し、
私たちは”焙煎を研究する側”として向き合うようになります。
そして――
ここで、大きな転換が起きます。
N氏は、徹底して”記録する人”でした。
一釜ごとに、すべてを書き残す。
温度。
時間。
火力。
排気。
どのタイミングで、何をしたのか。
それをグラフにして可視化していく。
それまでの私たちは、
感覚に頼る部分が大きかった。
「なんとなく、こうする」
その積み重ねです。
けれど、このやり方は違いました。
結果と原因が、結びついていく。
どの操作が、
どの味に繋がるのか。
一つひとつ、検証できるようになったのです。
霧の中にあった焙煎が、
少しずつ輪郭を持ち始める。
ぼんやりですが、
“見えるもの”になってきました。
もちろん、これで完成ではありません。
けれど――
進み方が、変わった。
感覚だけではなく、
積み上げた記録で判断できるようになった。
この変化は、大きかった。
後になって振り返ると、
焙煎の方法は一つではありません。
試行錯誤の積み重ねが、
少しずつ形を変えていく。
その過程そのものが、
自分の焙煎になっていくのだと思います。
このとき私は、ようやく
“迷いながら進む方法”
を手に入れました。
(次に続く)
『あと一歩が届かない、想像以上に高い焙煎の壁』

記録を取り、検証を重ねる。
その積み重ねによって、
焙煎の精度は確実に上がっていきました。
大きな失敗は減り、
安定して”商品になるコーヒー”が煎れるようになる。
自分たちで飲む分には、
十分に満足できるレベルです。
けれど――
時折、名人の豆と飲み比べると、
はっきりと分かるのです。
「何かが違う」
かなり近づいている。
それでも、届かない。
ほんの”皮一枚”。
けれど、その差が埋まらない。
この壁は、想像以上に高いものでした。
気づけば、焙煎のやり方も変わっていました。
最初に真似ていたスタイルとは、
まったく違う形になっている。
機械の違い。
環境の違い。
それに合わせて、
自分たちなりの方法に変わっていった結果です。
つまり――
同じことをしているつもりでも、
すでに別の道を歩いていたのです。
それでも、あと一歩が届かない。
前に進んでいるのか、
それとも足踏みしているのか。
分からなくなる日々が続きました。
そんなとき――
一つの区切りが見えてきます。
名人のもとで集められるデータは、
もう限界に近い。
ここにいても、
次の答えは得られない。
そう感じ始めていました。
そのタイミングで、
声をかけてくれたのがN氏でした。
「うちで、一緒にやらないか」
迷いはありませんでした。
同じ方向を向いて、
コーヒーを追いかけられる環境。
それが、そこにあると分かっていたからです。
こうして私は、
新たな場所へと移ることになります。
N氏は、抽出の技術にも長けた人でした。
焙煎だけでなく、
一杯として仕上げるための技術。
その両方を、
厳しく、そして丁寧に教えてくれました。
振り返れば、この時間こそが、
後の自分を支える土台になっていきます。
そして――
いよいよ、
その時が近づいてきていました。
自分の店を持つ日が。
(次に続く)
『今でも私は、あの一杯を追いかけ続けています』

新しい環境での仕事は、充実していました。
コーヒーに囲まれ、
店を動かす現場に関わりながら、
経営の現実を一つひとつ学んでいく日々。
けれど同時に、
その厳しさも見えてきます。
理想だけでは続かない。
続けるためには、現実を越えなければならない。
独立の準備も進めていましたが、
物件は高く、資金も足りない。
時間だけが過ぎていく。
焦りと迷いが、少しずつ大きくなっていきました。
「本当に、自分にできるのか」
そう思い始めていた頃です。
――その背中を押したのは、
たった一言でした。
「やってダメなら、諦めもつくでしょ」
妻の言葉です。
その通りでした。
やらずに終われば、
一生、心に残る。
だったら――やるしかない。
そう腹を決めたとき、
不思議と道が開けます。
東大阪。
近畿大学の近く。
学生街の一角に、
小さなテナントの話が舞い込みました。
10坪。
決して広くはない。
けれど、十分でした。
そこに設置したのは、
小型の直下焙煎機。
ガラス越しに焙煎が見える、
コーヒー専門店です。
――自分の店。
初めて、自分の焙煎機を持った瞬間でした。
開店当初は、静かなものでした。
けれど、夏が終わり、学生たちが戻ってくると――
店の空気は一変します。
焙煎の香りに引き寄せられるように、
人が集まってくる。
小さな店は、
気づけば途切れることのない場所になっていました。
あのとき、やめなくてよかった。
そう思えた瞬間です。
振り返れば――
コーヒーが好きではなかった私が、
ここまで来ました。
なぜ、店主になったのか。
答えは、シンプルです。
本当に美味しい一杯に出会い、
それを、自分の手で作りたくなったから。
ただ、それだけです。
けれど――
その「一杯」を追い続けた結果が、
この人生になりました。
コーヒーと向き合う日々は、
今も変わりません。
むしろ、深くなっているように思います。
あれから44年以上。
今でも私は、
あの一杯を追いかけ続けています。
(終わり)